怪我をした/右手もどかし/苛立ちつ/吾子らの背なの/頼もしきかな
——読み終えて、しばらく胸のあたりがあたたかいままでした。
MaYoさんの短歌。右手を怪我して、思うように動かない。苛立ちがつのる。……その苛立ちの向こうに、ふと子どもたちの背中が見えてくる。自分が弱ったぶんだけ、子が育っていた——その発見を、静かに差し出す一首です。
ここが好き
怪我をした / 右手もどかし / 苛立ちつ / 吾子らの背なの / 頼もしきかな
好きなのは、前半と後半で、感情がくるりと入れ替わるところです。
前半は、ひたすら自分の話なんですよね。「怪我をした」「もどかし」「苛立ちつ」——利き手が使えないもどかしさ、思い通りにいかない苛立ち。マイナスの感情が、三つも重ねられている。
ところが後半、視線がふっと外へ向きます。「吾子らの背なの/頼もしきかな」。苛立ちが、感嘆に変わる。同じ一首のなかで、下を向いていた顔が、上がるんです。この転換の鮮やかさに、まずやられました。
じっくり味わう
そして、なぜ「背中」なのか。
顔でも、手でもなく、背な(背中)。——これ、子どもがこちらを見ていないということなんですよね。親のほうを振り返って心配するのではなく、自分から動いて、家のことをやっている。その働く後ろ姿を、親が後ろから見つめている。
怪我をしなければ、この背中は見えなかったはずです。いつも通り自分の右手が動いていたら、子どもの出番はなかった。自分ができなくなったからこそ、子どもができるようになっていたことに気づけた。——親と子の力が、静かに入れ替わっていく、その交代の一瞬が写し取られています。
「もどかし」の、その先
もうひとつ、この歌が素晴らしいのは、苛立ちを消していないことです。
「怪我のおかげで大切なことに気づけました」——なんて、きれいにまとめてはいない。もどかしいし、苛立っている。それは今も続いている。そのうえで、それでも子らの背中は頼もしい、と言っている。
きれいごとにしない誠実さが、この一首を信頼できるものにしているんですよね。苛立ちと感謝は、同時に存在していい。子育てでも、介護でも、老いでも——きっとそういうものなんだろうな、と深くうなずいてしまいました。
まとめ
利き手を怪我するという、ただの災難。それを世代交代の発見にまで届かせてしまう。しかも、湿っぽくもならず、説教にもならず、**「頼もしきかな」**という素直な感嘆で終わる。読後感が、本当に気持ちのいい一首でした。
MaYoさん、素敵な短歌をありがとうございました。**右手、どうかお大事に。**そして、頼もしいお子さんたちにも、拍手を送りたい気分です。
みなさんにも、自分ができなくなって初めて見えた、誰かの成長はありませんか? よかったらコメントや返歌で、聞かせてください。